夕暮れの街


夕暮れの光、染まる街。
太陽がゆっくりと沈む頃、
家が、街が、その光に照らされて、赤く光る頃、
いつも見かける人がいる。
狭い路地を自転車に乗って走り抜けていく男の人。
赤い光、きれいに染まった髪に見とれた。
嬉しいことがあったのだろうか、鼻歌なんて歌ってしまって。
悲しいことがあったのだろうか、涙なんて流してしまって。
涙さえ、赤く光ってきれいだった。


ごはんを食べたり、眠ったり、野良猫とじゃれたりする、
そんなわたしの日常に、その隙間に、彼はすんなりと入ってしまった。


雨が降っていた。
少し迷ったけど、やっぱり外にでることにした。
傘を差して、裏口の前。
太った野良猫と一緒に立っていた。
彼を待っていた。
待ちくたびれてしゃがみ込んでいたら、いつの間にか彼が現れていた。
今日はさすがに自転車ではなく、大きな傘を差していた。
髪、ほんとは黒なんだ。
今日は鼻歌を歌うでもなく、涙を流すのでもなく、ただ真面目な顔で歩いていた。
きれいな顔だなぁ、なんて思ってた。
わたしの腕の中にいる野良猫がニャーと鳴いた。
わたしは思わず猫の口をふさいで、彼を見上げる。
できれば気付かれたくなかった。
ただ眺めているだけでよかったのに。
その思いは届かず、彼と目が合ってしまった。
彼がこっちに向かって歩いてくる。
心臓の音が聞こえてきそうなほどドキドキした。
「きみのねこ?」
返事もできず、ただ彼を見つめるだけ。
「苦しそうだけど?」
はっとして、猫の口をふさいでいた手をはなした。
顔が熱くなる。
「何年生?」
「中学一年ですっ」
彼は傘を差したまま、わたしの隣にしゃがみ込んだ。
あいてる右手で猫を撫でる。
彼に心臓の音が聞こえてしまわないか、本気で心配した。
横顔、息するの忘れるくらいきれい。
「いやだね、この天気」
「はい、じめじめして、きもちわるいです」
彼は笑った。
なぜ笑ったのか、わたしにはわからなかった。
「あの、おもしろいですか?」
「答え方が生徒みたいだなって思っただけ」
笑った顔、きれい。
「ここの家の子?」
「はいっ」
「じゃあ、いつもここにいるわけだ」
「はいっ」
「ぼく、いつもここ通るんだ」
「はいっ」
「会ったら、また話そうね」
彼はそう言うと、立ち上がり、帰っていった。


変わってしまった。
彼を眺める、というわたしの日常。
彼とお喋り、というわたしの日常。


街が赤く染まる頃、いつも彼とお喋りした。
今日あったくだらないできごと。
お互いのこと。
夢とか、将来のこと。
野良猫の名前のこと。
彼と過ごす時間は、わたしの日常で、それでいて、特別だった。


「のらねこ?」
「うん、でもいっつもここにいるよ」
「名前あるの?」
「ない」
「じゃあ、考えようか」
「うん」
「太ってるからね、丸いからマルとか」
「安易」
「きみってけっこうサバサバした性格だよね」
「そんなことないよ。ただ、その付け方は簡単すぎなだけ」
「じゃあ、コチャ」
「なんで?」
「体の色が濃い茶色、で、コチャ」
「へんだよー、かわいくないよー、顔に合ってない」
「きみも考えなよ」
「いいよ、じゃあ、カチャ」
「それじゃあ効果音だよ」


赤い街。赤い髪。赤い頬。
「引っ越すってほんと?」
「うん、本当。ずーっと遠いとこだから、会えなくなっちゃうね」
どうしてそんな悲しいこと、ふつうに言えるんだろう。
「寂しくなっちゃうね」
「きみのこと忘れないから安心して」
「わかった、安心する」
「よし、これでぼくも安心した」
嬉しくも楽しくもなかったけど、むしろ悲しかったけど、彼が笑ったからわたしも笑った。
なんとなく、気持ちが軽くなった。
わたしが左手を差し出すと、彼は右手を差し出した。
握手のつもりが、手を繋いでた。
「元気でいてね」
「きみもね」
手を離して、ばいばい、と、ふる。
彼の笑った顔が、赤い空が、目に焼き付いた。